湖
濡れた草と土の匂いがしている。
姿勢を低く、夜に紛れる俺は息を潜めてそれを吸い込む。
待っているのだ。
あの暗い森から、俺の潜むこの湖の畔に走ってくる、まだ幼い影を待っているのだ。
彼はずっとあの森を走っている。
乱雑に跳ねる呼吸を抑えつけて、心臓を軋ませて走っている。
奪ってみせろと俺が言ったこの鈴の音を追って、森を抜けようと走っている。
背に負うものの重さに追われて、足がもつれては湿った土に倒れる。
膝を木の根に強かに打ち、頬に泥を塗り、それでも立ち上がって走り出す。
そしていつか彼がここで鈴を奪う日を、俺はじっと待っているのだ。
彼はきっと来る。
この湖の夜が明けて、湖面が光を取り戻すまでにきっと来る。
土の匂いがしている。
湖の香りが混じる。
闇に身じろげば、冷え切った空気に鈴の音が鳴った。
そして暗い森の中、彼が顔を上げる。
ぬかるんだ土に沈む夜の底で息を切らして、悲鳴を上げる心臓を無視してまた走り出す。
負う過去が彼を追い立て、追いかけてくる現実を彼はまた負う。
その幼い背に自分を重ねて、倒れるなと祈りながら、抱き締めたいと思っていた。
彼の目はいつでも、この湖の向こうを見ている。
彼はその先に行くのだ。
だから必ず、彼は来る。
走る足が乱れている。
終わらない森に苛立っている。
それでも彼は走るのをやめない。
間違えるな。
大木の震える影と、背に負う夜の闇に呑まれるな。
俺は待っている。
彼は前方の闇を睨み付け、後方の夜を睨み付け、がむしゃらに走っている。
俺はただ待っていた。
あの暗い森を抜けてくる、出会った頃よりも一回り大きくなったその影を待っていた。
濡れた草と土の匂いに息を潜めて、鈴を奪われようと待っていた。
森から駆け出す満身創痍の彼を見た。
緩む口元を夜色の布に覆って、ゆっくりと立ち上がる。
夜はいつしか明けていた。
湖面は金色に輝いていた。
Fin.
CAUSALX2のえいしさんへ愛を込めて捧げさせていただきます☆
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