Shadowboxer
枝を外れた林檎は、逆らわず地に落ちた。
科学者はその落下を知っていた。
"Hypotheses non fingo"―仮説により偽らず―
迷うのはただ、夜のキッチンに震える手。
ああそのまだ幼い危うさの、林檎を見つめる目は瞬きさえ忘れて。
グラスの割れる鋭い音を聞いて、カカシはまたか、と思った。
慣れたとはいえ耳を突くその音の余韻が収まっても、割った本人の声は聞こえない。
「サスケー、大丈夫?」
目を落としていた本から顔を上げ、返事がないのを認めると重い腰も上げ、キッチンへ足を向ける。怪我でもしたかと考えるけれど、何もそこまで反射神経の悪い彼ではないだろう。思い直して覗き込むキッチンには、割れたカップと立ち尽くすサスケの姿。
焦ったようでもなくただ呆然と立ち尽くすその指先は、僅かに震えていた。
「サスケ」
呼ばれてはたと気付いたらしいサスケは目を上げて、悪かった、と呟く。
「いいよ、大丈夫。危ないから部屋行ってな」
笑いかけて頭を撫でたのは揶揄のつもりだったけれども、黒を濃くした両目は俯いたまま謝罪を繰り返した。
夜のキッチンは冷え込んで、裸足のまま床に立つその足先から冷えるだろうとカカシは思う。つい先刻までわずか震えていた指はどうやら、抑えたようだけれども。
「悪かった、手が滑って、」
「寝ぼけてるんじゃないの、お前。明日も任務でしょ。早く寝な」
ああ、と応える彼は、カカシに気付かれたことを知っている。
今月に入って割れグラスは片手の数を越え、そのたび立ち尽くすサスケの迷いを彼は知っている。
落下するグラス。
目で追うその軌跡。
グラスが壊れることを確かめるように落としては、その喪失に立ち尽くす。
枝を離れた林檎は落ちるのだと、科学者は知っていた。そしてその林檎が枝に帰らないことも、また。
「水は飲めたの?」
「いや、」
まだぎこちなく首を横に振ったサスケに、カカシはもう一度笑いかけて頭を撫でる。
今度こそ子供扱いするなと顔をしかめたサスケを横目に見遣って、水切りに伏せてあったグラスに水を注いだ。はい、と手渡されるその一瞬、意図的にバランスを崩されたグラスがサスケの手を滑った。掴もうか、手放そうか、一瞬の逡巡の内に、水を含んで重みを増したそれは鮮やかに落ちていく。
ああ落ちる、とサスケが目を細めたその瞬間、ぴたりとグラスが静止した。
「上忍だからね」
見下ろす先でにやりと笑うカカシの手の上に、グラスは未だ完全な形で乗っている。
溢れたわずかな水がその手を濡らしていた。
「お前ほど鈍くなーいの」
足元に散らばる破片を避けたその手の軌跡を、サスケは見なかった。けれど彼の手は確実に落ちるグラスを捕らえていた。
読まれている。
その安堵に似た感覚を舌打ちでごまかして、奪いとったグラスに口をつけて飲み干した。
水を得た喉が息をつく。指先に血が通う。同時に裸足のままだった足先が冷えていたことにようやく気がついた。
サスケはグラスをシンクに戻して、部屋へと足を向ける。
指切ったら看病してねと甘えた声を出して片付けにかかるカカシに、自分でやれよ上忍サマ、と返して片頬笑む。眠れそうだ、とサスケは思った。
"Hypotheses non fingo"―仮説により偽らず―
けれど枝から落ちる林檎を受け止める手のあることを、どうか。
シンクに残るグラスに、カカシはゆっくりと笑った。
Fin.
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